僕はどこかの公園の鉄棒にぶら下がりながら、
ジャングルジムで遊ぶ赤白帽子を被った子どもの集団を眺めている。
眺めている僕ももちろん子どもだ。
するとその集団の1人がなにかを叫びながら(たぶん僕の名前だ)
こちらに向かって走ってくる。足元でその子が笑っている。
そこでその場面はぷつりと途切れる。
前後はなく、断片的で、何の役にも立たない。
なぜ覚えているのかもわからないが、たぐり寄せることができるいちばん古い記憶がこれだ。
その場面には独特の匂いがあり、味があり、手の痛みがあり、温度がある。
でもそこにあるはずの決定的な何かが抜け落ちているような気もする。
それは当時見た夢の映像なのかもしれないし、本で読んだ物語かもしれないし、
誰かから聞いた話を自分の記憶として保存しているのかもしれない。
今となってはもうよくわからない。
長い時間を経ると、現実のできごとも、架空のできごとも
その境界線はくたびれて、ぼやけて、ないに等しくなってしまう。
ちょうど校庭に引かれた白線のように、時間という子どもたちが無意識に
ときには意識的に踏み消してしまうのだ。
そのまま放っておくと架空のできごとが、
現実のできごとのふりをして居座るなんてこともあるかもしれない。
でも一度消されてしまった線を同じところに引きなおすのは難しいし、骨の折れる作業だ。
そんなことは野球部に任せておけばいいし、僕はやりたくない。
この記憶を忘れ、年を積み重ねていき、もっと記憶力が不確かになったとき、
僕が思い出せるいちばん古い記憶はどんなものになるのだろう。
今のうちに良質な文章や映像を頭の中に入れておけば、
ああ僕の人生、悪くなかったなとすこしは勘違いできる記憶になるだろうか。
そういう勘違いなら大歓迎なのだけれど。
昔、石灰で白線を引く係の子に
返信削除「これ、コンニャク作るときに入れるんよ」と言われ
しばらく食べれなくなった記憶が蘇りました。
でも、物知りな子は好きな方でした。
小さいころ茶碗蒸しには虫が入っていると思い込み、
返信削除虫は入っていないとわかった今でも食べられません。
(きのした)