2011/07/15

月の檻

囚人364号は格子付きの小窓から月を眺めながら

「俺はやるべきことをやったんだ。」

と看守に聞こえない程度の声でつぶやいていたが、満月の夜には幾分不安になり

「俺はあんなことやるべきじゃなかったんだ。」

とこれまた看守に聞こえない程度の声でつぶやいていた。



これまで363人の死刑を執行してきた老看守は、喫煙所の薄汚れた窓から月を眺めながら

「俺はあんなことやるべきじゃなかったんだ。」

と部下達に聞こえない程度の声でつぶやいていたが、満月の夜には幾分安心し

「俺はやるべきことをやったんだ。」

とこれまた部下達に聞こえない程度の声でつぶやいていた。



月に囚われたふたりの周期的に揺らぐ心は、決して共振することがなく

硬質で冷淡なコンクリート造りの刑務所にもまた囚われていたため、

その揺らぎが刑務所の敷地外の空気を揺らす可能性は全くと言っていいほどなかった。

だから刑務所の長く高い壁沿いの道を散歩していた野良犬が

身震いをしたのはきっと寒さのせいだろう。



よく晴れた日だった。

多くの死刑がそうであるように、囚人364号のそれも午前中に執り行われた。

老看守は死刑執行室に顔なじみの牧師を招き、しばらくしてから囚人364号を招いた。

囚人364号は抵抗することなく手足を拘束され、布袋を頭からすっぽりと被せられた。

午前中には見慣れぬ暗闇と対峙した囚人364号は、

この闇には月が浮かんでないなと当たり前のことを思ってしまった自分を笑い、

ああ俺はもう二度と月を見ることがないんだなと思った。

それが悲しむべきことであるか、喜ぶべきことであるかはよくわからなかった。



防音性の強化ガラス越しに囚人364号がロープに首を通したことを確認した老看守は、

手をあげて3人の部下に合図を送った。

それを確認した3人の部下は3つのボタンを同時に押し、

囚人364号をあの世へと送った。

そして老看守はいつものように部下達の元へと歩み寄り、

「いいか、俺が、死刑を、執行したんだ。」とひと言だけ声をかけた。



その日の夜、老看守は囚人364号のいなくなった空っぽの牢屋を掃除した。

囚人364号の気配、囚人364号の痕跡、囚人364号の残したもの全てを

丁寧に時間をかけてひとつずつ消していった。

もちろん囚人365号を迎えるためでもあったが、

老看守の心に残る名付けられぬ感情をかき消すためでもあった。

掃除を終えた老看守は、古びた簡易ベットに腰掛け、格子付きの小窓からふと月を眺めた。

くっきりとした満月であった。

しかし喫煙所の薄汚れた窓から眺める満月が与えてくれる安心感を

その満月が与えてくれることはなかった。

その満月は、老看守の脳裏にある言葉を喚起させたが、それを口にすると

今まで積み上げてきたものがあっさりと崩れ落ちてしまいそうだったのでやめておいた。



老看守は月から目を離さずに、ポケットから煙草を取り出し、口にくわえて火をつけた。

部下達はその儀式のような光景を見ていたが、見ないふりをした。

ケムリを吐きながら老看守は「あと1ダースだ。」と自分に言い聞かせるように言った。

あと12日間を黙ってこれまでのように過ごせば、定年を迎え、退職できるのだ。

それでも格子の隙間から射す月の光に照らされていると、

俺が声をあげるべきなんじゃないかと思わずにはいられなかった。

しかしその声をぶつけるべき適切な場所がわからなかったし、

部下達のこれからのことも考えて、その思いを押し殺すことにした。

煙草を吸い終えた老看守は、言葉の代わりにこぼれた涙を部下達に見せぬように、

うつむきながら静かに牢屋を去った。

1 件のコメント:

  1. ひと言

    できれば「シャバの空気はおいしいね~。」

    なんて言わずに人生を終えたいものです。(きのした)

    返信削除